藤川球児は若い頃から凄い?火の玉ストレートとは?広末涼子との関係についても

2025年、新たに阪神タイガースの監督に就任した藤川球児さん。監督就任一年目ながら、2025年のタイガースは好調を維持しており、7月現在首位を独走しています。もちろん選手としても素晴らしい選手だった藤川球児さん、投げる球は「火の玉ストレート」と称されましたよ。

今回は藤川球児さんの若い頃の活躍や火の玉ストレートの由来などについて紹介します。

藤川球児の経歴

藤川球児さんは若い頃はどのような選手だったのでしょうか。藤川球児さんの経歴を振り返っていきましょう。

高知三羽烏の異名を取る

高知県高知市出身の藤川球児さんは、兄の影響で少年野球チーム「小高坂ホワイトウルフ」で野球を始めます。自身の幼少期に親は離婚、母子家庭で子供二人に野球をさせたこともあり、お母さんは多額の借金を抱えていたといいます。

高知商業高校では兄とともに甲子園に進出を果たしました。更に二年生の時に高校日本代表も経験し、「高知三羽烏」の異名を取りましたよ。藤川球児さんは若い頃から名の知れた選手だったのですね。

ドラフト1位でプロ入り

1998年のドラフト会議でタイガースから1位指名を受け、高卒でプロの世界に飛び込んだ藤川球児さん。高卒選手はルーキーイヤーからフル稼働することは少なく、藤川球児さんも一年目となる1999年のシーズンは二軍で体力強化に務め、二軍公式戦への登板も三試合に留まりました。

2000年はフレッシュオールスターに選出され、更に一軍の舞台も経験。19試合、22.2イニングに登板しましたが、防御率は4.76、このシーズンはまだ一軍戦力ではなかったのですね。

2002年は先発として登板

2001年は一軍での登板機会がなかった藤川球児さんですが、プロ4年目の2002年には先発投手として積極的に起用されました。同年は12試合に先発し、68イニングを消化、1勝5敗で防御率は3.71と、先発ローテーションに定着するような数字は残せなかったものの、プロ初勝利は記録しましたよ。

タイガースが久々に優勝を果たした2003年は2先発を含む17登板、29イニングを投げ防御率は3.38でした。ファーム日本選手権でセーブを記録したものの、日本シリーズでは登板機会がありませんでした。

2005年にブレークを遂げる

2004年は肩の故障などで前半は二軍暮らしだったものの、シーズン後半に一軍に定着、26登板で31イニングを投げて防御率2.61、35の奪三振を奪いました。

前年に飛躍のきっかけを掴んだ藤川球児さんはプロ7年目の2005年シーズンに大ブレーク、セットアッパーに定着し、なんとシーズン80試合登板を成し遂げました。92.1イニングを投げ、防御率は1.36。7勝1敗1セーブ46ホールドという記録を残しましたよ。いわゆる勝利の方程式「JFK」が完成したシーズンですね。

2007年から守護神に

2005年、2006年と最優秀中継ぎのタイトルを獲得した藤川球児さんは、2007年より一年を通して抑えのポジションを務めることとなりました。10試合連続登板を記録するなど71登板で5勝5敗46セーブ6ホールド、防御率1.63という成績を残し、抑え転向後最初のシーズンから最多セーブのタイトルを獲得しました。

以降2012年まで毎年抑えのポジションを務め、2008年には防御率0.67を記録するなど毎年活躍を重ねました。

メジャー挑戦

2007年にポスティングシステムを利用してのメジャー挑戦を球団に拒否されていた藤川球児さん。2012年のオフに海外FA権を行使してメジャー挑戦を果たし、2013年からシカゴ・カブスと2年契約を結んでプレーしました。2013年は12試合で防御率5.25、2014年は15試合で防御率4.85という成績でしたよ。

2015年はテキサス・レンジャーズでプレーし、2試合に登板して防御率16.20という成績に終わり、メジャーでの戦いはこのシーズンの途中で終了となりました。

高知でプレーした後阪神復帰

2015年5月にレンジャーズを自由契約となった藤川球児さんは、同年6月より四国アイランドリーグの高知ファイティングドッグスへ入団、先発投手として完封勝利を記録するなど地元を沸かせました。

2016年よりタイガースに復帰し、当初は先発も務めたものの、後にリリーフに戻り、2019年には56試合登板で4勝1敗16セーブ23ホールド、防御率1.77と活躍。2020年をもって現役を引退しました。

出典:DRAMATIC BASEBALL 2025

2025年シーズンより監督を務める

引退後、藤川球児さんはコーチ職などにはつかなかったものの、タイガースの球団本部付「Special Assistant」に就任、チーム運営、選手やスタッフへのサポートなどを行いました。また、野球解説や自身のYouTubeチャンネルでの活動なども行いましたよ。

2024年10月14日にタイガースの一軍監督に就任することが正式発表され、2025年シーズンよりチームを指揮。前半戦終了時点で後続に10ゲーム近くの差をつけるなど好調を維持しています。

火の玉ストレートとは?

藤川球児さんの代名詞として「火の玉ストレート」というものがあります。藤川球児さんのストレートは最速156キロ。もちろん凄まじい数字ですが、この数字を上回る投手が何人かいたにもかかわらず多くのプレイヤーが「ナンバーワンのストレート」と評するなど藤川球児さんのストレートは特異性を感じさせるものだったようです。

藤川球児さんのストレートはリリースポイントがかなり前方、打者に近い所で放たれる為、球速の数字以上に体感速度が速かったそうです。更にどういう理屈か、藤川球児さんのストレートについて「浮き上がってくる」という表現をする選手も多くいましたよ。

どうして「火の玉ストレート」と呼んだ?

日本の野球では過去に凄まじいストレートでならした江夏豊さんが投げた球が「火の玉のよう」だと評されたことがあったようです。このように、火を吹くような速さのストレートという意味で剛速球を火の玉に例えるという文化は昔からあったのですね。

藤川球児さんの火の玉ストレートについては、2006年のオールスターゲームで藤川球児さんと勝負し、直球勝負で三振に取られた清原和博さんが「20年見た中でナンバーワン。火の玉や」と評したことが、そのイメージを定着させる一因になったものと思われます。

藤川球児と広末涼子の関係は?

藤川球児さんについては、ネット上で広末涼子さんとなんらかの関係があるという噂も見られます。二人は共に1980年、誕生月も7月で共通しており、生まれた日は広末涼子さんが18日、藤川球児さんは21日と僅か3日違いです。さらに広末涼子さんも高知県高知市出身であることが明らかになっています。

調べてみた所、どうやら二人には中学校で同級生だったという証言が多くあるようなんです。中学校は城北中学校とのこと。ただ、二人が同級生だという情報は、あくまで公式から発表されたものではありませんよ。

最後に

今回は藤川球児さんの若い頃の凄さや火の玉ストレートの秘密、広末涼子さんとの関係について紹介しました。現役時代243セーブを記録した藤川球児さん、名球会入りの条件は200勝か250セーブとされているのですが、藤川球児さんは入会規程に相当する記録保持者として推薦を受け、特例枠で名球会に入っていますよ。藤川球児さん率いる今後のタイガースの戦いにも要注目です!